己に恥じぬ 生き方を問う

 私たちの目は近視になった。先の見えない未来であるのに、そこには確実に現在の延長線が続いていくことを信じている。何か大きな変化が起こることなど想像しないし、また望んでもいない。それがゆえ、すっかり遠くを見る目を失ってしまった。近視でもあれば十分というわけだ。
 対して共産主義を信じることのできた時代の若者は、遠視だったのではないかと思われる。今現在の状況を把握する前に遠き未来へと目を向けた。社会変革を志すに当たり、時代遅れな左翼思想に一身を預けたのが、時代を読み切れていなかった証左である。彼らは足下の石に気付けずに、躓いて倒れた。
 どうしてこうも極端なのか。僕は両者共に対して懐疑心を抱かずにはいられない。現実を諦観するではなく、しかと見据えつつ、それでもなお理想を追い求められないだろうか。
 私たち、つまり現代の若者は、道端の電柱に頭をゴツンとぶつける前に、目の矯正をした方が良い。躓いた過去は救えないが、今を変えていくことならできる。電柱に気付く為の対策は出来る。近視には然るべき凸レンズの入った眼鏡が必要だ。その眼鏡とは、理想を胸に抱けども、目の前を見ようとしなかった四十年前の全共闘世代を知ることだと考える。
 そうして僕は、夢見ない現代の若者と、全共闘の若者の邂逅から始まる劇を作った。両者の出会いには確実に意義が見出せるはずだ。演劇という生身同士のぶつかり合いだからこそ、思想の対立軸がより鮮明に浮き彫りになってくる。今夏、その作品を上演する。
 私たちは生きている限り、闘い続けなくてはならないのだ。そのためには現実と理想への試行錯誤を止めてはならない。
 いつの日かその必死の生を振り返り、己に恥じぬ生き方であっただろうか自問自答する。その時に、ある理想地点へと到達することができていれば、それでいい。理想に行き着くため、今はただ懸命に今を生き抜くことだ。

■記事■
 慶應義塾大学/酒井