言いたい放題 — 鈴木

 後輩から相談を受けることがあるが、遠い将来のこと、就活のこと、夢や目標のことといった、「未来」の話題になるといつも困ってしまう。僕自身があまり未来のことを考えられない質なのと、彼らに胸を張れるほどの立派な学生時代を送ってきてはいないからだ。
 そんな僕が彼らに対して言えるまともなアドバイスってほとんど一つしか無くて、それは「学部成績と語学力だけはちゃんと上げとけ」ってこと。
 「何を夢の無いことを」と言うかもしれない。「習得に時間のかかる外国語や、つまらない大学の授業に時間を費やすより、自分のやりたいことだけやった方が得に決まってる」と感じるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。
 どこかのセミナーで「自分の10年先のキャリアプランまでしっかり考えましょう」なんて言われたかもしれないけど、社会にも出てない段階で考えられるキャリアプランなんてたかが知れている。いざその10年後を迎えた時の自分は全く別人だし、「やりたいこと」や「自分の夢」なんて、変わる時には明日にでも変わる。
 長期的に見れば物事は不確定なことの方が圧倒的に多い。未来がどっちに振れたって適応出来るのは、摩耗しない力を身につけている人間だ。外国語は、一度習得すれば一生使える便利なツールだし、好成績を取るぐらいに学部でしっかり勉強すれば、その科目に関する理解も、考える力も深まるから、結果的にお釣りが返って来るぐらい得だ。
 実際上、成績や語学力が選考の重要な要素となる業界もあるから、短期的にも絶対に損はしない。僕自身、4年生になってから突然アメリカの大学院を受けることに決めたので、それまでの学部成績がそこまで高くなく、けっこう苦労したものだ。
 「激動の時代だ」なんてお題目を最近よく聞く。10年どころか2•3年先も読めない時代、誰が10年後の自分のキャリアを明確に見極められる?短期的なトレンド、社会のうねりから距離を置き、キャンパスに籠ることが出来るのが学生の特権だ。小手先の情報戦に躍起になるより、10年後世の中がどうなっていたって対応出来るだけの「地力」をつける方がよっぽど賢いし、何より、自分が成し遂げたい「夢」が本当に分かった時、力不足から諦めることになることが一番悲しいじゃないか。

■記事■
 東京大学/鈴木

新しいモノサシをつくろう〜「富」、「名誉」、「快楽」を超える時代へ〜

 17世紀、オランダの哲学者、スピノザはこう語った。
 「思うにこの世で一般に見られるもので、人々の行動から判断して人々が最高の善と評価しているものを、われわれは次の三つに還元することができる。すなわち、富、名誉及び快楽である。この三つのものによって、われわれの精神は、他の何らかの善について思惟することが全くできないほどに乱される(知性改善論より)」
 しかし、時代は変わった。今を生きる私たちには、富も名誉も快楽も、最高の善とは言えないかもしれない。必要かもしれないが、それにより、最高の善(それは最高の幸せに繋がっている)を手に入れることができると思うほど、プリミティブな世界で生きてはいないというのが本音ではないだろうか。
 私たちの世代は、生まれたときからモノに困ることはなく、社会的にみても、モノが不足することはなかった。人類が誕生して以来、初めてとも言えるこの時代が、私たち(この時代に生きる多くの人々)にもたらしたものは『獲得』しなくても生きていけるという価値観と言える。(それは『生産』することではじめてアイデンティティを形成することができる時代から、『消費』することで社会の一員に認められる時代の到来をも意味している)
 この時代がこの後も長く続くかどうかは分からないが、少なくとも私たちの根底には、良くも悪くも『獲得』という価値観が備わっていない。(少し前まではグッチでありプラダでありブランドというのはある意味ステータスであったそうだ。数万円する財布がステータスを生み出していたということだが、今は、日常だ。誰でも持っている。そう、小学生でさえ)だから、私たちは、『獲得』の代名詞であり、最高の善である「富」も「名誉」も「快楽」も、最高の幸せに繋がっているなどと期待しない。そこには、以前の世代に生きる人々とは異なる価値意識が広がっている。
 それはある意味でいう「甘さ」であり、先人たちは私たちのことをバカにし、けなすだろう。確かにそれは的を射ている、だが、それでも私は思う。日本の憲法が、どんなに「甘く」ても、「すばらしい」ものであるように、私たちが、どんなに「甘く」ても、「富」や「名誉」や「快楽」に捕われた人々の行動よりも幾分か「すばらしく」世界を善くするだろうと。
 だからこそ、私は、行動し、進んでいきたい。そして、同じ時代を生きるみんなと「新しいモノサシ」をつくっていきたいと思う。

■記事■
慶應義塾大学/島  

徒弟制度から学ぶ。

 “技の引き継ぎには「徒弟制度」いう師匠と弟子が一対一で対する育て方がありました。手間と時間がかかり、早道のない育て方ですわ。”(西岡常一『木のいのち木のこころ』新潮文庫 P・13)
 徒弟制度と聞くと、もはや時代遅れの制度だという印象を受ける人も多いだろう。事実、昔のままの徒弟制度が残っている産業は今やほとんど無いだろう。
 また、住み込みで師匠の身の回りの世話をしながら技を学ぶというような純粋な徒弟制度を取らない場合でも、一人の師匠についてじっくりと教えを受けるというスタイルは、上述の通り手間と時間がかかる行為で、効率性からは縁遠い。
 「今やGoogle検索やハウツー本を駆使すればだいたいのノウハウは分かるのだから、弟子入りなんてナンセンスだ」
 そう思う学生も多いのではないだろうか。
 しかし、いくら方法論を学んでも、そのノウハウの背後にある意味=なぜその行為が理にかなっているのか、が分からないままでは結局応用がきかず、新しい問題に対して、自分で考えながら技術を
応用させていくということが出来ない。
 “なぜならすべての仕事を基礎から、本当のことは何なのかを知らずには何も始められず、何をするにしても必ずその問題にぶつかるからです。途中を抜かしたり、借りものでその場を取りつくろっても最後には自分で解決しなければ職人の仕事は終わりません”(同P・14)
 師匠が「師匠」たる所以は、長い歳月をかけた研鑽のなかで、自分の仕事のあらゆる動きにおいて、その意味を理解している=「理」を手にしているからだ。だからこそ、基礎も何もない、手間と時間がかかる弟子の身を引き受け、彼が学ぶ過程でのつまづきや疑問に適切に対処しながら一人前へと育て上げることが出来る。だからこそ、弟子は安心して自分の身を師匠に委ねることが出来るのだ。
 日本には「守・破・離」という言葉があるが、「守」=師匠のもとにつき先人の教えをまずしっかりと理解し習得する過程は、一見非効率でも長い目で見れば非常に合理的だろう。
 学生のうちにやるべきことは何か、という話題になると、自分のやりたいことや夢を見つけることが大事だという意見が多いが、それと同じぐらい大切なのは、「この人の下について学びたい!」と心から思えるぐらいの師匠に出会うことなのではないだろうか。

■記事■
東京大学/鈴木 

レールなんて、もう無い。

「学生の価値観が変化している」ーー最近、周りの大学生の話を聞いていて、このように感じる。なぜだろう。

難関大学に入学、順当に進級して卒業、大企業に就職。日本経済が活気に満ち溢れていた高度成長期やバブルの時代であれば、これで一生安泰だった。リスクを取らなくても、一定水準の生活は保証されていたし、多くの人がそれで幸せを感じていた。そんな時代だ。

しかし、今では違う。日本経済は低迷し、大企業を含め多くの企業が生き残りをかけて必死な状態で、新卒就職率の低下も底なしの様相を呈している。多くの人が生きていくのに必死な状態で、本当の幸せとは何かということを考えなくなっているようにも思える。

そんな時代に、私たちは大学生をやっている。大学時代というのは、最後のモラトリアムと揶揄されるように、学問を通じて自分がこれから何をして生きるのかを深く考える期間であり、また多くの自由な時間を与えられた期間でもある。しかし、日本の就職活動は早期化しており、多くの大学生は自分のやりたいことを満足に考えられないまま就職をする。これは本当に不幸なことだと思う。

私たちは自分をもっと知るべきだ。こんな時代だからこそ、世の中の波に流されず、なにかおかしいぞ、という嗅覚をもって、自分が本当にやりたいことを見つけることが重要だと思う。寝ても覚めても没頭できるような何かを見つけて、それを徹底的に追及した先に見えてくるものがあるのではないか。

そして、このような思いから、最近周りの大学生の中に、具体的なアクションを起こす人が増えてきたように感じる。例えば起業、留学、海外支援ボランティア、など。自分が社会に出る前に本気でやりたいことを見つけ、休学という手段を講じて、それをやるという学生の話を聞く機会が本当に増えた。

幸せの基準は人それぞれだが、普通のレールに乗っていれば「幸せ」がやってくるという時代は終焉を迎え、今後はひとりひとりが自分の幸せについて真剣に考え、行動に移さないと幸せは掴めないのではないか、と思う。

「普通」の範疇を超えて、学生時代のうちに自分のやりたいことを徹底的にやる。1年や2年卒業が遅れてもいい。そういう気概をもって、自分の信じた道を貫く学生がますます増えれば、閉塞感の漂うこの国を動かす大きな活力が生まれるのではないだろうか。