『麻痺と慣れ。名付けるのはあなたです。』

グローバル化が加速し続ける現代社会において、日本人も様々な形で海外で働いている。今回、民間警備会社のイスラエル駐在職員として働く小口さんに、今のお仕事に就くきっかけとなった体験や、イスラエルで働くようになって感じる自身の変化について伺った。

 

麻痺 〜日本と海外〜

「大学生の頃、日本は戦争がないけれども今は“平和”なのだろうか、そもそも“平和”とはどんな状態なのかとよく考えていました。そして日々、考えを深めていく中で、日本では感じたことのないものを見つけようと思い、歴史的な事件があった国や現場を巡り始めました。ボスニアヘルツェゴビナをはじめとする東欧諸国や、カンボジアのキリングフィールド。中でも、ポーランドのアウシュビッツ収容所は衝撃的だった。ある部屋に人の髪の毛が大量においてあり、何かと思ったら、衣類の材料として使うために集められたものだったんです。 “人間は良心が麻痺したら、何でもできてしまう”と痛感し、戦慄が走りました」

 

慣れ 〜イスラエルの日常〜

「大学卒業後は民間警備会社に就職し、警備の仕事を通じて世界の現状を知りたいと考え、海外勤務を志願しました。そして、一年前からイスラエルで働くことになったんです。実際に現地で働いてみると、想像していたよりは安全でした。しかし、テロや戦闘行為は今でも起こります。頻繁にロケット弾が市街地近くに撃ち込まれるなんて、本では考えられないですよね。はじめのうちは怖かったです。ただ恐ろしいもので、それが毎日続くと徐々に慣れてくるんですよ。3ヶ月もすると、被害は?どういう手法?とか客観的というか冷めた視点で事件を捉えるようになりました。戦争ぼけというのか、そんな危険な事件も 他人ごとのように感じるようになったのです。ある種の“慣れ”なんですかね」

 

小口さんがアウシュビッツで感じた良心の麻痺と、イスラエルで体験されている危険を他人事のように感じてしまうという慣れ。この二つには共通する部分があるのでは?

「確かに言われてみれば、おっしゃる通りですね。人は衝撃的なことがあっても、晒され続けると、いつの間にかそのような出来事に対する感覚が麻痺してしまうのかもしれません。でも指摘されるまで、そんなこと考えたこともなかったです。もちろん、この2つの間には何段階かステップはあるだろうけれど、自分の感覚にそんな変化が起きているなんて、自覚はなかった。もしかしたら、心への 日常的ストレスを抱えないための、人間の適応能力によるものなのかもしれませんね」

 

日本にはない“危険”を身近に感じる環境にありながら、それを日常として受け入れ働く小口さん。私はふと、感じました。日本における生活でも、“麻痺”か“慣れ”が起こっているかもしれない、知らぬ間に、誰しもが。

 

慶応義塾大学/岩橋

カネでもなく、モノでもない。— JICA青年海外協力隊事務局 技術委員 白井巧さん

「途上国でボランティア」という言葉を、最近映画や小説でよく聞くが、その実態はどうなのか。そこで今回は社会貢献を生業としているJICA青年海外協力隊事務局技術委員の白井巧さんにお話を伺った。

JICAは国際協力機構の略称であり、その一つの組織である青年海外協力隊は、農業・工業・教育といった部門で世界各地の発展途上国に日本から人材を送り現地で支援活動行う。その中でも白井さんはスポーツ部門に属し、インド洋沖の島国モルディブに派遣されていた。現在は日本で技術委員を務めている。

スポーツによる支援とは一体何なのか。その仕事を聞くと、「スポーツ分野は、現地の人との生活やクラブでのスポーツ交流を通じて、その技術指導を超えた地域への貢献を果たす事がねらい」と語る。またその為、「体育・スポーツの技能よりも、文化的な相違を乗り越えて対話できるコミュニケーション能力が必要です」という。具体的に白井さん自身は、当時モルディブのバドミントン協会の要請によりジュニアクラブで毎日、練習を指導し、現地で普通に生活していたそうだ。他にも例えば、地域の人を対象にしたバドミントン教室を開いたり、全国大会や国際大会への引率やコーチ役を行う。

今まではこのスポーツ分野の役割は、何もない所にゼロからスポーツの楽しさを伝える・普及させる事が多かった。だが、経済的・政治的に国が豊かになると、嗜好の発展に伴い、スポーツの需要が高まってくる。これからは、スポーツに教育としての機能がより求められるだろうと白井さんは語る。例えば、スポーツを通じて、感謝の気持ちを持つ・他者への尊敬・仲間への思いやりの心を育む、といった情操教育である。「まさにいま、日本の部活のノリが求められています」という。部活のノリとは、前述した情操教育の効果や、集団行動の大事さを学ぶこと、さらにそのスポーツを通じての精神的な成長を遂げることである。日本では、当たり前のこの部活文化は海外には見られない。(一方で、日本人はプロになる訳でもないのになんで毎日こんなに練習してるのか、と言われる事もある。)

 

支援とは、何かモノをあげたり、作ったりというイメージが強い。確かに、そもそも道具がない所には、まず物資支援が必要となるが、現代、どの国もある程度豊かになっていく過程で、物資からマンパワーによる支援が益々重要になってくる。それはモノをどう使うかという技術や、管理能力、優秀な人材を教育するノウハウだ。

その点、JICAボランティアは他国の同等の機関に比べ、マンパワーでの支援に重点を置いており、秀でていると言える。何かを押し付けるのでなく、「異文化をうまく理解しながら、その国の発展・成長によりそう形での支援が望ましい」のである。何故、震災後に世界中から日本宛にメッセージが届くのか、その一因は世界各地で地道に活動し地元と密接に関わっているJICA隊員がいるからだろう。

最後に、社会貢献に興味がある学生へ、白井さんからのメッセージを頂いた。「動機はなんでもいいんです。行ってみて初めて分かる事がたくさんある。相手社会への支援のみならず、そこで活動した日本人が成長をとげ、日本の社会で活躍し貢献してくれることを期待しています」

早稲田大学/田中

外務省志望から一転

 東大法学部を卒業し、コロンビア大学へ留学する鈴木悠平さん。なぜ彼は、国内大学院や就職という選択肢を選ばずに留学するのか。鈴木さんへのインタビューからは、トレンドや世間の常識などに流されず、自分の足で進もうとする意志が感じられた。
―官僚志望から、一転したそうですが?
 海外大学院を志望するのは、まさに行き当たりばったりの決定だった。それまでは国一を受けて外務省に行きたいなと思って勉強していたが、「このまま霞ヶ関に行って東大卒の知り合いばかりの環境だったら、甘えてしまいそう。ずるずると仕事続けて、そこそこのおっさんにしかならない気がする。若いうちは厳しい環境に身を置いて鍛えた方が良いんじゃないか」と考え出して。特に先の見通しがあったわけではないが、国一受験を辞めた。今思えば無謀だったと思う。
―無謀な挑戦と思えた決断、今はどう思いますか?
 現在、過去の自分が全く予想だにしなかった展開を迎えているが、それでも僕は、これからの留学生活に期待を寄せ、前向きに準備をしている。僕の周りで起こる色々なことが、一本の線で結ばれ出したからだ。公衆衛生大学院のオファーをもらった直後の3・11。4月半ばに先輩に誘われるままに宮城県の牡鹿半島へ。その後色々あって、100人以上で構成される復興支援プロジェクトのまとめ役になってしまった。被災地にはこれから衛生・健康分野で様々な課題が噴出する。ある意味最先端のフィールドワークだ。今年のクラスの中で被災地の現状をつぶさに見られるのは僕ぐらいではないだろうか。それ以外でも、留学するにあたって多くの人が人や情報の紹介などで力を貸してくださっている。自分ではこうなるなんて予想も意図もしていなかった。それでも結果として貴重な機会に恵まれ、いつしか歯車ががっちりと噛み合っている。流れに身を委ねること、他者の声に耳を傾けることは、主体的に行動すること以上に大切で、有効なことなのかもしれない。
―留学に対する不安は?
 上述の通り、出願を決めた時は、大きな決断、人生の転機だと思っていたが、留学が決定した今、あまり海外大学院留学自体を特別なものだとは感じていない。実務を数年経験した者が通常行くとされるプロフェッショナルスクールに学部卒で行くということ、日本人がほとんどいないコロンビアの公衆衛生のスクールに行くこと、端から見たらいわゆる「マイノリティ」だろう。だけど、これはある先輩に言われたことだが、「周りに日本人がゼロか1000人かに関わらず、自分の人生という意味では常にオリジナルな一人」だし、就活や若者の進路トレンド上で多数派か少数派かなんて、本当はあまり意味が無い。数多の出願者の中から、たった一人しかいない自分が、どう評価されるか、に尽きる。世間から僕がどう思われるか、なんてどうでもいい。個人として、闘っていく。それだけだと今は思っている。
※インタビュー後、鈴木さんは大学院入学を1年延期し、宮城県での復興支援活動に注力することに決定されたそうです。

■取材■
 東京大学/馬場嵜

相手を認めるという豊かさを ー (財)日本水泳連盟元外国委員長 東島 新次 さん

 表彰式でよく選手を見ていると、正しく「勝つ」ということは、負ける者がいるからこそ成り立つことだと改めて気付く。勝って天狗になるのもわかる。しかし、どんな相手も認めるべきではないだろうか。ここ最近の若者を見ていると相手を認めるということがなくなってきているように感じる。
 私たちの世代と、今の世代では環境も変わってきた。インターネットやITの普及と共に誰とでも簡単に繋がることができるようになった。一昔前は、海を越えた外国の人と連絡を取り合うには、今のようにメールを送って、5分、10分で返事が返ってくるということはまずなかった。手紙を送って、返事があるまでに1ヶ月、いや、長いときでは2ヶ月はかかったことを覚えている。今よりも世界は遠く感じられた。しかし、私の場合は返事を待つその「期間」によって、海外へ行きたい気持ちが大きくなっていた。数ヶ月に一回返事があると、着実に世界に一歩、また一歩と近付いているという実感があった。
 全てが全て、良かった訳ではない。人伝いに人と会うと「あの人が知っている」「この人の方が詳しい」と言われ、あちらこちらと盥回しにされたこともあった。当時はとても悔しい思いをしていたが私の場合はそれがバネになった。どんな相手も認めることができたからだ。
 今は携帯やインターネットを使って、簡単に人を検索できる。しかし、対話と言う上でのコミュニケーションは確実に減った。私は「人と話すこと」にこそ、相手を認めることができる大事な要素が含まれると考える。相手を理解する上で自分を理解してもらう必要がある。
 今の若い人たちは、自分をアピールすることがない。自慢話をしろと言っている訳ではない。無言で自分が伝えたいことを受け取ってもらえ!、と言っている訳でもない。これからは自分の考えを持って、チャレンジすることが求められる。今も、昔も変わらないことは、トップにはいつも、自分の考えを持ち、それを主張し、自我を出してきた人たちが結果として、トップに立っている。
 人を認めるということはそんな簡単なことではない。しかし、人を認められることで私は心が豊かになると考える。今の若者たちには相手、人を認めるという豊かさが欠けているように思う。
 まずは自分。それから、周りにも共有したい。

■取材■
 慶應義塾大学/島

映画に生きる — 東大文学部卒、三谷匠衡さん

 「いい学校に入って、いい会社に入る」。そのような幸せのあり方の次に来ることとは?ということを考えるために、東大文学部を卒業し、今夏から米国フィルムスクールへ進学する三谷さんを訪問。ジョージ・ルーカスの母校、南カリフォルニア大学で映画を学ぶ道を選んだ彼の生き方に迫ってみた。
■ 映画との出会い
 映画の道を目指すきっかけは『コーラスライン』という映画でした。一度観たことがあったのですが、二度目はもう衝撃的で、身震いするほどの感銘を受けました。大きな画面に映像が出てくるだけなのに、そこから湧き出る感情や、言語化できない圧倒的なエネルギーが胸に突き刺さる瞬間がたまらなくて、映画の魅力に取り憑かれてしまいました。スティーブ・ジョブズのスピーチで “Connecting the dots” という話がありますが、まさに自分の人生の様々な「点」が、一本の「線」として繋がった瞬間でしたね。

■ フィルムスクールへの進学
 映画の道を志してからは、フィルムスクールへの進学を考え出しました。ところが、まず
ハリウッドどころか映画業界に知り合いがいない。お金もない。また、職業経験を経て進学する人がほとんどの狭き門に、学部あがりの自分が入るのは至難の業。それでもとにかく挑戦したいと思い、フィルムスクールに通う学生や、過去に留学を果たした先輩と連絡を取ったり、他大学の映画関連の授業やイベントに参加して知見を深め、映画の脚本を書いたりしました。孤軍奮闘でしたが、少しでも距離を縮めるために思いつく限りのことはやったと思います。
■ 舞台はあくまで「世界」
 いまや、国内/海外、内資系/外資系という二項対立は通用しないと思います。どの分野に進むにしても、活動する舞台は「世界」。日本で働くことに違和感を覚える人がいれば、迷わず外に出ることを勧めたいです。もちろん、必要な知識や言語能力を備えるのは大前提になりますが。
■ 夢と理想を追求する20代
 一度きりの人生、後悔なく生きることが何より大事だと思います。それこそ、20代は何をしてもいいのではな
いでしょうか。就職が第一目標ならばそれでよし。自分の進みたい道を模索したければそれもよし。同期たちで働き始めている人もいますが、人は人、自分は自分なので、私は自分の夢を追求し、没頭していたい。その意味で、今は焦る気持ちはありません。大胆かつ緻密に理想を追求しつつ、頭と心とを信じてやれるだけやる。そんな20代を「生き」たいですね。


■取材■
 東京大学/馬場嵜